愛のない幼少期から思春期を経て自分しか自分を甘やかせなかった人間の末路
親はすぐ手を挙げるし否定しかしない。
気分が悪い時は当たり散らす。気分がいい時が殆どない。
そんな印象を子供の頃に持ったものだ。
自分の肯定感は当時学校にしかなかった。
勉強ができる。それだけが自分のステータス。
運動は出来なかったし、結構子馬鹿にされることは多かったが、自分はそれをただのじゃれあい感覚でいた。自分は割と懐が深かったらしい。
だが、他人はそうでないことが多かった。自分がじゃれあいのつもりで悪戯すれば割と過剰にキレられたこともあったと当時感じた。
否、じゃれあいと認識していた領域は他人にとっては度を越していたんだろう。
それも、恐らくはネガティブ方面の認識が余りにも甘かったのだろうと思う。
これも恐らくは育ちのせい。本当に悪い育ちだった。
そんな自分は今どうしてその大嫌いな親の元を離れられないのだろうか。
なぜ自分は社会に出て失敗して精神を病んで精神科にもいかずに引き籠ってしまったのか。
完全に想像力が欠如していたのかもしれない。
自分は大丈夫だとか、どうにかなるだとか考えていたのかもしれない。
だが、実際は違った。
自分には創作をする理由が薄すぎた。
創作で食っていく。
それが実現する人間は少ないという話をよく言われるが、自分はそれに集中すれば不可能ではないと高を括っていた。
だが、自分が創作する目的はよくよく考えるとお金以外になかった。
そうなってしまうと創作の質はどうしても上がりようがなかった。
自分は学生の時独り暮らしをした。
バイトもしていたが、家賃を全て親に頼ってしまった。
かなり甘えていたように思うが、実際は高校の時から精神的な問題を抱えてしまっていたんだろうと今になって思う。
自分は良く逃げる。どうしても関わりたくないことや嫌なことからは物理的に本当に逃げ出していた。
逃げてもどうにかなってしまう。誰かがどうにかしてくれてしまう。
自分自身の手でどうにかするということを殆どせずに身体だけ大人になってしまったのだ。
勿論周りからは白い目を向けられていたことだろう。その状況からも自分は逃げていた。
一方で、自分が肯定感を得られることであった時はかなり積極的に取り組んでいたようにも思う。
高校の時プログラムを独学していたのは、周りの人が知らないことを自分は学んでいるという自己肯定感のためだったようにも思う。
結局は自分は肯定感が欲しいだけだったのだろう。
現実に肯定してくれる人間なんて身近には一切いなかったし、会う大人全て自分を否定ばかりしていたように感じる。
自己肯定感を渇望する餓鬼となった俺は、大人になれず、大人を忌避し、自分の世界に引きこもってしまったのだろうと思う。
はぁ。文章が散らかっている。
最近マジで思考が纏まらない。
身内が身近に居ながら絶望的なほどに孤独。
俺は肯定感が欲しい。
そうでないなら俺は否定されない環境に居たい。
真面目にそろそろ辛い。
働くのは怖い。
人間が嫌い。滅びろ。
死にたいほどつらい。でも死にたくない。
生きて俺を否定した連中に吠え面かかせたい。
今の俺の生きる理由はなんてクズなのか。
もう何も分からない。
愛が欲しい。
疲れた。7