社交性の重要性は学ばなくても本能的に理解できるものなのか?
身近な存在が頼りにならないと言うのはそれだけで損失
人間というものは一度失望されてしまえば巻き返しが難しいものだ。
信用というものを積み重ねるというのは本当に難しい。
一度失敗した時に何一つフォローされなかった場合、失敗への恐怖心により一層行動の幅を狭めて更なる失敗を招く。
そして信頼も同時に失っていく。負のスパイラルだ。
失敗はフォローされなければならないということがよく分かる。
だが、もちろんそれで学ばないのであればフォローしきれないと言われても仕方がないことだろう。
せめて一番最初の失敗くらいはフォローすべきだろう。そこでイライラして突き放すのは人の可能性を潰す最低な行為だと自覚しなければならない。
だが、それでも何度も失敗してしまう人間は居る。
自分なんかもそうだった。興味のないことに対し自分は話を聞かないし覚えない。重要であったとしても眠気が誘発する。ナルコレプシーだったのかもしれん。
そういった人間である自分はどう扱われたら良かったのだろうか。
自分は基本情報取れるくらいの頭はあるわけで、高校も偏差値50超えの公立に行っていたのだから学習能力はない訳がない。そういうプライドが自分が「精神障害持ち」であるという可能性を否定して精神科に行くことをしなかった。
自分から自分の正しい扱い方を跳ねのけていったのかもしれない。
そんなとき、自分はどうしても思ってしまう。「万全な信頼を置ける正しく導いてくれる身近な存在が居てくれたならな」と。
自分の身は自分で守れるようにすべき。これは社会の掟の様なものだ。
この年までで自分の身の守り方を学ぶことが出来なかったというのがそれに馴染めかった原因だろう。
そして、仮に学べなかったとしてもその不足を補える身近な存在が居なかったことも原因の一つなのかもしれない。
人一人では不完全だ。どうしても失敗するし、考えが足らなくなる。
そんなとき、信頼できる仲間の一人や二人いるだけで多少はマシな選択肢が取れるようになったんじゃないかと思う。
自分は孤独だ。理解者など存在しない。
自分の弱みを、自分の失点を共有した相手などほとんどいない。
親でさえ、自分が何に悩み、何に躓いて、何におびえているのか。恐らく何一つ理解してない。
「話さなければ分からない」、そう言っても、Face to Faceで話せば自分が理解されたいことを殆ど話せないことを理解できない連中なんだ。
どこにも共有せずここに別名義でこんなマイナスな文章を連ねている地点でも理解者を作る気が無いことが分かる。
それでは当然アクセスされるはずがないのだ。誰にも見られるはずがないのだ。
それでも自分は、散らかった文章を書き連ね続ける。
そうして虚構の理解者を作り上げて自己満足するのだ。
俺は必ず成功する。そうでないならその時は死んでいる。
そう思わないと生きてられない。