燻った意志の置き場所

どん詰まりな半ニートが毒を吐いて自分を見つめなおすブログ

居場所が得られないからやる気が削がれているのかも

孤独に戦い続けていると本当に心が徐々に凍り付いていくのを感じる。

熱量が放出されていくばかりで動こうという意思が削がれていくような感じ。

人は人の影響なしに行動の動機付けが出来ないということなんだろうか。

 

自分は常に居場所を探し求めてきていたのかもしれない。

今思えば結構質が低かった家庭環境において、自分だけ分不相応な能力を発揮して、家庭環境に似つかわしくない社会に放り出された自分には常に居場所となれるような場所が無かった。

家でも学校でも職場でも、自分は能力がちぐはぐで常に異質な人間。

自分の内に潜む化け物が暴れていたのも本当に良くなかった。承認欲求に飢え過ぎていた。

昔の自分は今の自分とは全く違うものということにしている。仮に昔の自分を知っている人間と出会っても知らないことにするつもり。

思い返せばそれくらい酷かった。本当に思い返すたびに苦しくなる。本当にひどい。

結局どこにも居場所を得られず。逆に失うばかり。

でもすべてが自分のせいだったかというと疑問がある。割と世の中の理不尽が自分を愚かに仕立て上げた側面もある。

自分が愚直過ぎたとも言えるが、それでもクソみたいな社会のせいにしないとやってられん。

 

 

今の自分は過去の戒めに縛られ過ぎている側面もある。

過去と同じ失敗をしまいと考えて、でも結局どうしたらいいのか分からなくなっている。

居場所を得るどころか失い続けた自分には、行動するのが躊躇われるくらいの戒めが刻まれてしまっている。

分からないという状態から抜け出す手段を誰からも教わることが出来なかった自分は、苦しみ続けて解決手段を模索するのではなく、思考停止して苦しみから逃げるという方法しかとれなかった。

自力で考える能力があったとしても、過去の失敗のトラウマが呪いのように思考能力を奪っていく。

もっと純粋だった頃はたとえ愚直であったとしても行動できた。

失敗のリカバリー手段を知らなさ過ぎたとはいえ、結局自分には失敗を乗り越える力を身に着けておく必要があった。

必要以上に罰されて育っていた自分には失敗というものは怖いものだった。

 

あぁ、なんか文章考えるの怠くなってきたわ

居場所なんてものは活動していれば副産物として得られると自分に言い聞かせていたけどやっぱりつれえわ

 

欲求無しに人間は動けやしない。

自由が無さすぎると満たされない状況を甘んじて受け入れてしまう。

無欲過ぎれば何も出来ない。

自分の求める物を見つけるべきか。

なんでもいい。真なる欲求である必要はない。

自由が無いなんて言い訳にもならねえ。

何でも求めていけ。強欲に。

 

――って感じでいくか。